貧乳と、1500円(世界平和への第1歩)

 プレイ途中で止まったままになっていた「魔法はあめいろ?」と、どうしても2回目をプレイする意欲が湧かない「アルトネリコ2」を、近所の中古ショップに売りに行きました。

 ――過ぎたるは猶(なお)及ばざるが如し
 という言葉があります。「度を過ぎてしまったものは、程度に達しないものと同じで、どちらも正しい中庸の道ではない」という意味です。しかしおっぱいに関してそれは断じて違うと、「魔法はあめいろ?」をプレイしていて思ったのです。
 大きすぎるおっぱい(巨乳)は、小さすぎるおっぱい(貧乳)と同じではありません。貧乳は、語義どおり確かに程度に達しないものかもしれないけれど、それはある種の人間、ぶっちゃけ僕のような人間にとっては正しすぎる道。
 まあ貧乳を、「好きというほどのものではない」という男性はいるかもしれません。けれど生理的に受け付けないほど嫌っている男性というのは、実はそれほどいないのではないかと思っています。
 何しろ、今現在はある程度の大きさのおっぱいを獲得している女性であっても、成長の過程で必ず"貧乳であった時期"を経てきているわけで、男性側としてそれを拒絶してしまうことは、今ある愛すべき女性の人生の繊細な一部を否定してしまうことになるからです。
 人々にとって、たいていの、今日において程度に達した事柄というものは、程度に達しない時期を成長なり努力によってクリアしてきた末の成果であり、程度に達したのちになって振り返ってみれば、程度に達しない時期に抱いた悲哀・感慨はかけがえのないもの。それがあるから、今がある。まあ、僕には実感できそうもない話ですが。
 貧乳を嫌う心理というのは、貧乳というものが、性的に未発達で権利意識に乏しい女児に対する性的搾取を象徴するものとして認識され、それは甚だしい人権侵害であり下劣で忌避されるべき嗜好だとする主義・主張によって、演繹的に嫌わせているのではないかと勘ぐってしまいたくなるくらい、僕はそういうものを好いているのだということに、絶望的な気分に陥ります。ごくたまにね。
 いやまあ、貧乳論議は別にどうでもいいんです。どうでもよくないんだけど! 僕がここで言いたいのはですね、度を越した巨乳は、貧乳と同じようなものどころではなく、モノというか、まるで異質・異形の"大がかりな突起物"として、生理的に受け入れられないことがあるのだということを、僕はこの「魔法はあめいろ?」で思い知ったのです。
 現に世の中には、望まずして人知を超えた巨乳になってしまった女性たちがいるようで、にわかに信じがたいような大きさのおっぱいをした女性、まるでおっぱいに身体が付属しているとでも言わんばかりの写真を、ネットでたまにみかけて、これが加工された画像でないならば、もはやひとつの障害に他なりません。
 だから、こんなことを言うのは気が引けるんですけど、感じてしまうんだから仕方がない。おっぱいが3つ付いているのとそれほど大差のない嫌悪感をひよこや環に抱いてしまった時点で、ウィットの利いたインテリ風味と怒涛のハイテンション・ギャグバトルのガチンコ勝負に対するそこはかとない好感など吹き飛んでしまったのでした。
 巨乳ヒロインとの対比・棲み分けとしてではなく、「メインヒロインは大きめだったからこの子は貧乳で行こう」みたいな安直なヒロイン造形でもなく、貧乳同士の"どんぐりの背比べ"的世界観こそ僕の理想とするところ。彼女たちが実際そうでないことはわかっている、けれど世界観それ自体が十分に慎み深く、はじらう乙女の文化遺産だ。
 はるか昔、ちいさきものを「いとをかし」と愛で、中世に確立された美的理念「詫び寂び」に通ずる、おっぱいの貧しさ・微かさに美意識を見出す我らが感性のグローバル化こそが、最も望ましい世界平和のカタチであると僕は常から考えておるわけです。
 ちいさき者、かよわき者を美しく感じられる心根があれば、誰がそれらに暴力を振るえるものか。男性にとって、貧乳は掴めないがゆえに暴力など振るいようがなく、巨乳はそのありようからしてどうしても荒々しく扱わざるを得ないという意味でも、どちらの嗜好が世界平和に貢献するかは明白です。
 貧乳を愛するためには繊細な配慮が求められ、それは暴力とはまったく無縁の、とはいえ思いやりとまでいっていいものか。しょせんは自らの欲するところを為しているだけですから。
 あ、えーと。何の話だっけ。
 そうそう。「魔法はあめいろ?」は1500円で買い取ってもらえました。2800円程度で買ったのに(廉価版だった)、それで商売になるんでしょうか。ちょっと心配で、すごくうれしいです。
 あと、「アルトネリコ2」は900円にしかならなかったので、取りやめました。それはあまりにあんまりだったので…。

Alice s Adventures in Wonderland

 Pixivで見かけて一目惚れしてしまった、とある絵師さんのお話。
 その方は、PixivでいうとこちらEefy 〜sino web site〜というwebも運営されています。
 茨乃(しの)さんという方なんですが、ただただ素晴らしすぎて、僕なんかはもう思わずため息がもれるばかりです。
 こちらのアリスなんて、高性能カラーレーザープリンターでプリントアウトして額縁に入れて部屋に飾っておきたいくらい好きです。もはや愛しちゃってます。
 オーソドックスといってもいい、メルヘンな世界観にあって、ふわりと湧きあがったひどく印象的な光彩は、彼女を静かに振り返らせる。たおやかにこちらを見つめるその深い瞳の、紅い渦に、僕は心が締め付けられてしまうのです。
 ――まあ、僕のようなダメおやじに愛されたところでキモいだけでしょうけどね、頑張ってください。影ながら応援しております。

声優の演技と、スキップできるけどしないプレイヤー

 先日「ひまわり」をプレイして、この作品は同人作品なのでさすがに入ってなかったんですけどね、ギャルゲーにおける「声優の演技」についてちょっと思うところがありまして。取りとめもなく書いてみようかと思います。
 僕は以前から、ギャルゲーではもうたいていの作品に吹き込まれている声優の演技を、プレイヤーとしてどう扱ったらいいものか迷ってしまうときがありました。まあ、このブログではよくある、どうでもいいことに過ぎないんですけど。
 テキストを読み進めていくことに関しては、1行(といえばいいのかな、ウィンドウの中の1表示)を読み終わればクリックして次の行に進む、ごく単純で悩むこともないんですが、しかし声優の演技は必ずしもプレイヤーの読解スピードと連動していないじゃないですか。
 ほとんどの場合、プレイヤーの読解スピードのほうが声優のしゃべるスピードより早く、プレイヤーは声優の演技が終わるのを待ってクリックすることになります。語尾が「ですぅ」とかの舌っ足らず系天然ヒロインの場合など、恐ろしいくらい待たされます。もう勘弁してくれって感じです。
 待たされるのが嫌なら、テキスト表示を声優の演技と連動させるモードに変更すればいいんですが、これはまどろっこしくてもっと嫌(ぉぃ)。というか、テキストを自分の読解スピードより遅い表示で読まされるというのは、中に固形物が詰まったストローを吸うみたいに、思いのほかストレスが溜まるものです。
 それに演技とはいっても、ヒロインが話す内容はすべて、感情の込められた、主人公(プレイヤー)が心して聞かなければ(鑑賞しなければ)ならない重要なものというわけではなく、単なる事実の確認、主人公の知らない事情に関する状況説明、一見無駄な受け答え、それらの淡々とした、わざわざ音声として聞くまでもない演技のほうが、むしろ割合としては大きいんじゃないかと僕などは思ってしまいます。
 そもそもコミュニケーションとは大半の無駄で構成されいるのに、自意識過剰ゆえの理屈っぽさ、重箱の隅を補強することがクオリティと擬(なぞら)えられているこの世界。無駄っぽいことすらおいそれと粗末にできません。
 ここでプレイヤーの意識の指先は瞬間的に、他愛のないジレンマに引っ掛かることになるのですよ。
 それは、この行のテキストは全て読み終え、それがいちいち声優の演技で"再説明"されるほどの内容でもないということがわかっていて、本音をいえばすぐにスキップしたいんだけど、でも登場するヒロイン全てのストーリー・エンディングをコンプリートすることが求められる該ジャンル、声優の演技もことごとく鑑賞しなければコンプリートしたことにはならないんじゃないか――と。
 そんなおたくらしい潔癖さを求める気質を底流に、ギャルゲーというものが声優の演技もしくは彼女たちという存在を、アニメなどよりいっそう近しい存在に感じられるとしたら、それは彼女たちの演技をクリックひとつで飛ばせる(プレイヤーの意のままに操れる=プレイヤーが所有している)からだとして、それは、そうであるがために強い愛着の生じた声優の演技を中途で切り上げてしまうということに感じる申し訳なさと不可分の、決して相容れない関係・心理状況にあると説明できます。
 声優の演技をスキップできるからこそ、あえてスキップしないことで、プレイヤーは作品へと積極的に没入"させられてゆく"。感情移入の問題を、脚本家個人の表現技巧や演出センス、あるいはプレイヤー各々の相性といういかにも水っぽい領域に落とし込むのではなく、そういう不可避でシステマティックな感情移入経路の存在も指摘されていいでしょう。ゲームであるならばね。
 ところが、急展開する物語や"実用"に供されない濡れ場において、ヒロインによる冗長な状況説明や意味のない嬌声でもきちんと鑑賞"しなければならない"という規範めいた意識が、物語・キャラクターに「没入しているんだ」という三分の一意識的なプレイヤーテンションを、むしろ減退させる場合もあるのではないかと、僕はそこはかとなく感じてもいるのです。
 この行の声優の演技をすべて聞いていたら僕はきっと醒めてしまうだろうな、というのがなんとなくわかってしまい、醒めたくないからスキップをしたいんだという、些末な欲求。
 それは、なんだか落ち着かない格好を思わず正したくなる生理に似て、けれどついスキップしてしまったがために、のちのコンプリート(達成)感がごく微かに損なわれてしまったかもしれない、初回プレイは1回しかないという意味でかけがえのない機会において、それを聞かなかったがために作品が提供する完璧な楽しさ、100%の感動が得られなかったかもしれないと、ひとたび思ってしまったら、それはもう取り返しがつかないこと。
 これは果たして、プレイヤーのプレイの仕方が悪かったのでしょうか、我慢が足らなかったのだと忸怩たる思いをするほかない事柄なのでしょうか。まあ、こんなにも矮小な問題は、問題にすらされず「作品が悪い」「僕とは合わなかった」という感想に含まれ、済まされるとは思うんですけど。そもそも完璧な楽しさ、100%の感動なんて"理論値"としてすら算出不可能です。
 というか僕は、声優の演技をプレイヤーは自由にスキップできるけれどスキップしないことで最低限の感情移入が確保されていると指摘しておきながら、声優の演技はむしろスキップできないほうがスッキリしていて望ましいと考えてもいるのです。
 それは、プレイヤーが声優の演技を自由にスキップできることで得られるシステム的な利点は、スキップできないことで開闢される表現可能性の足元にも及ばないと、なんとなく感じているからです。
 声優の演技をスキップできなくする、プレイヤーがそうしなくても良いようにするには、プレイヤーの読解スピードと声優の演技を完全に連動させなければならず、そのためには、映画の字幕のように1頁に表示するセンテンスをごく短くするか、さもなければ声優の演技とテキスト表示のどちらか一方を削るしかありません。
 声優の演技を削るということは、無難だし魅力的ではありますがこのエントリーの内容とするところではないので、テキスト表示を削ることの可能性ついて考えてみたいと思います。
 ヒロインの演技にテキスト表示が付随しないとなると、プレイヤーは耳で聞いて理解するしかないのだから、制作者側がプレイヤーに理解してもらいたいと思うならば、その表現内容からこけおどしの理屈っぽさや薀蓄めいた難解さは封印されることでしょう。
 「あー」とか「えっと」といった意味のない応答句やつっかえ・どもりもごく自然に表現できるし、そもそも聞き言葉によるコミュニケーションは恋愛表現にとって大前提であったはずです。
 また、ヒロイン同士、男友達などを含めた主人公以外の登場人物同士のやりとりを、プレイヤーの操作(クリック)を挟まず進めることができるならば、「間」を表現することが叶います。従来の、いかにもわざとらしく挿入される強制頁送りパートではなく、かの名作「トゥルーラブストーリー2」の下校モードで、CD読み込み時間を逆手に取って実現した恋愛的「間」の創造、そもそも言葉によらないコミュニケーションは恋愛表現にとって大本命であったはずです。
 さらには、ヒロイン同士のやりとりを、従来のようにそれぞれ別々に単独で収録する(それは「気持ちのこもった朗読」に過ぎません)のではなく、一部の細切れなものとはいえアニメのアフレコのように実際のやり取りとして収録することができれば、演技のクオリティはかなり高まることでしょう。これは同時に、タイミングのあった口パクを実現することにもつながります。
 そうして出来上がってくるものとは、ヒロインが喋っているときはウィンドウが自動的に消え、当然全身のあらわれた彼女たちは句読点ごと、文脈に応じて姿勢や表情を刻々と変化させる、ごく当たり前のコミュニケーションの臨場感です。
 そのうえで、主人公のセリフは画面下部に設置された字幕か、その都度再表示されるウィンドウに掲載され、情景描写や内面描写は、どうせ時間は止まっていることになっているのだから、全画面表示にしていくらでも記述していけばいいわけです。
 もちろん、ヒロインたちの"止まらない"やりとりで聞き取れなかった部分や、テキストとして読みたい場合は、バックログでセリフごと再生できるのが望ましいし、今回の主張と矛盾するようですが、演技に完全連動した字幕(ごく短いセンテンス)を表示できるモードを用意してもいい。
 ――改めていうことでもないけれど、これらは素人に過ぎない僕が勝手に妄想したことです。プロの方にしてみれば冷笑の対象であること疑いありません。けれど、声優の演技が入るなら入るなりに、それを生かしたゲーム性、ゲームデザイン、仕様変更が図られてしかるべきだということは、きっと間違ってはいないと思います。というか、思いたい。
 声優の演技のない「ひまわり」をプレイしていて、そのゲームシステムが、演技のないことに適した、優秀なものであるということをしみじみ思うにつけ、それが、声優の演技がつく一般のギャルゲーとまるで変わらないものであるということに、納得できない思いを抱いてしまったのですよ。
 声優の演技がない作品のゲームシステムは、「ひまわり」という同人作品をプレイしても分かるとおり、既に完成され一般化しているとしても、声優の演技がある作品のゲームシステムは開発すらされていないのではないでしょうか。
 声優の演技というものは、テキストのそれとは比べ物にならないくらい生身を感じさせるものであるからこそ、それを生かすための開発は、無限の拡がりと創造の許容量を持つものだと僕は信じています。
 いつまでも、"ずいぶん"気持ちのこもった朗読付きの電脳絵本というんじゃ、寂しすぎるでょ。もちろん、そういった意欲的な試みのなされた画期的な作品をただ僕が知らないだけなのかもしれませんが…。

「19 BLUES」と、「Wish」

 テレビを見ていて、無分別に流されているJ-POPを特に意識することもない僕ですが。最近妙に引っかかるところががありまして。
 安室奈美恵が1996年にリリースして大ヒットした「SWEET 19 BLUES」、このリメイク版を、加藤ミリヤというアーティストが「19 Memories」というタイトルで最近発売したらしいんです。その中のメロディがですね、たぶん1小節くらいの短さなんですけど、どこかで聞いたことがあるような気がしてならないんですよ。
加藤ミリヤ「19 BLUES」試聴
 まあ、この手の気づきはたいてい判明することはないんですけどね。でも今回だけはやけに気になってしまった、容易にあきらめてはいけない、ちゃんと突き止めなくちゃならないように思われて。それでここ数日は折に触れて"うんうん"唸っていたわけなんですが。
 今日、というかさっきようやくわかったんですよ。
 それは1997年に発売されたCD「music tracks from Wish」。これはALI PROJECTが手がけた、ラジオドラマ「Wish」サウンドトラックでして。このアルバムに収録されている主題歌「Wish」(歌・演奏もALI PROJECT)の出だしというか、サビのメロディが「19 BLUES」の一部(↑の試聴でいうと5秒〜7秒)にそっくりなんです。
ALI PROJECT「Wish」試聴
 どうですかっ!? 似てますよね、というかそのまんまですよね。まあ、判明したところで大したことではないんですが……。
 ちなみに、僕はこの「Wish」という曲が大好きなんですよ。
 今ではもうすっかりアニメ関連のお仕事が多くなっちゃってるALI PROJECT、好きな曲もいっぱいできてうれしいけれど、それでも、ALI PROJECTが手がけた主題歌で一番心に残っている曲はと言われれば、真っ先ににこの「Wish」が思い浮かぶだろうな。それくらい思い出深い曲です。
 だからかしら。ちゃんと突き止めないといけないような気がしてしまったのは――。

傘が引っくり返る

 風雨があまりにも強すぎて傘がひっくり返ってしまうのは、傘の思いやりなんじゃないかと思ったのです。
 だって、もしひっくり返らなかったら僕らは空に弾き飛ばされてしまうだろうから。あまり強すぎない傘の骨は、きっと僕らを地上にくくりつけるための役割を帯びて、なのに僕らがそのことに気づいてくれないから、"ツン"って僕の髪の毛を引っこ抜いてしまうんだ。でもそれはマジ勘弁。
 使い始めて2年になる今の傘。今まで一度も引っくり返ったことのなかったこの傘が、今朝ついにひっくり返ってしまったので、ここに記す。一度引っくり返ってしまっても、やり直しはきくのかな。僕はやり直したいと思ってる。だってちょっと高かったし……。

「好き」について考えてゆくということ

 音楽が時間芸術だというときに含意されることはいろいろあるのだろうけど、一つにはそれが一方向に流れる不可逆のものであり、今ここでそれを聴く自分に対して、後戻りできない形で「必死に」現前してくるということがあるだろう。選択肢があったりバックログがあったりするとはいえ、エロゲーも基本的には同じである。途中でセーブをして中断したりしたって、再開すればそれはテンポよく進む物語であり、その直線的な進行の中で、ヒロインたちは「必死に」現前してくる。ゲームを起動するたびに僕は物語に入り込み、彼女たちの運命に立ち会う。それが単なる抽象された文字情報ではなく「現前する」ことを音楽や声や絵が教えてくれる。(from オネミリエの出島さん)

 僕がdaktilさんのギャルゲーテキストに親近感を覚えてしまうのは、そのギャルゲーをプレイすることで、「僕」がどうなっているのか、どうあるのかということについて率直に語っているからです。少なくとも僕にはそう思える。それはつまり、僕もそうありたいと望んでいるからです。
 ネットにたくさん転がっているその手のテキストを読んでいると、「これは批評だ」「解釈だ」という言い訳で書き手の存在感(つまり己ということ)が意図的に希薄化されているような印象を受けてしまう。貴方という存在が人称を逸脱して酷く客体化しているんです。
 けれど僕はかたくなに感覚してしまう。そのギャルゲーを今まさにプレイしているのはこの「僕」以外の何者でもないんだ、という意識をテキストを介して読み手に連絡できなければ、それはなんて虚しい表現なんだろうかと。
 ――まあ、そういう話はキリがないんで置いておいて。
 僕がこのエントリーを読んで思い出したのは、「さくらむすび」でした。
 僕はこの作品を、まず音楽から入ったんですよ。
 いつぞやの冬コミで、カレンダーとサウンドトラックのセットが(コミケとは思えないという意味で)お得な価格で頒布されていて、まず何よりカレンダーの執筆(?)陣がすごいハイクオリティで、サントラCDのほうもピアノをメインに据えた音楽・生演奏ということでジャスト僕の好み。
 まあ、カレンダーでヒロインのおでこに筋が入っちゃってて販売後交換だとかいわく付きになってしまったけれど。それでも「さくらむすび」のサウンドトラックは、インストゥルメンタルとしてたっぷり好いもので。ゲーム本編をプレイする時点で既に、ほとほと繰り返し聴き尽くしていたのでした。
 で。その後ゲーム本編に手を出した僕のそのときの感慨を、今になってようやく合点がいったのです。僕にとっては「さくらむすび」のゲーム本編こそが、"ファンディスク"だったのだなと。
 飽きもせず毎日あたためられてきた、この穏やかでゆるやかな旋律に、「さくらむすび」という世界と、物語と、ヒロインたちのたたずまいを瑞々しいまでに想像(創造)してきた。まさにそれはdaktilさんがおっしゃっている、ヒロインたちを「今ここでそれを聴く自分に対して、後戻りできない形で「必死に」現前」させてきたということなのでしょう。
 つまるところ、僕にとって「さくらむすび」のゲーム本編は、音楽のアナザーストーリーであり、主題の別解釈であり、旋律のふとした陰影。「そういうことだったのか」という納得ではなく、あくまで「そういうのもアリかもね」という承認なのです。偉そうな話ですが。
 ファンディスクがどうあるべきかという議論よりも、自分にとってファンディスクとはなんなのかという内省のほうが、より本質に近づけるとみるべきでしょう。それはもちろん、グッズや同人誌のように市販され意図して自ら欲するものだったり、意図せず与えられ気づかされるというようなものであったりもするでしょう。
 必然と、偶然とを織り交ぜて、「好き」(ファン)という内容(ディスク)をクリエイティブする伸びしろとして、詰めの甘さとか隙とか意地悪めに表現してもいい、ギャルゲーというものが宿命的に抱えているそれら諸事情が、はたまたプレイヤー各々に恣な夢の引導を渡しているということも、それはそれで素晴らしいことではないかなと思ったりするのです。
 最後に。
 本当に好きな作品なら、ギャルゲーだって、プレイ時間がかかりすぎるからといったって、"再放送"してもいいんだということを付け加えておきたいと思います。僕だって本当に好きな「ONE〜永遠の輝き〜」や、「TALK to TALK」のいくつかのシナリオなどは、これまで何度となく繰り返しプレイしてきましたから。
 僕は、効率良くなんて生きられない。無駄なくなるべく多くの良い作品に触れたいなんて、望んだとしても叶わないことだとわかっている。人生とはつまるところ、「それでも」か、「それなら」かでしかなく。共通項としての意味を定義するとしたら、それは「『好き』について考えてゆく」ということ。だからこそ、メーカーが制作したファンディスクというものは、やさしくて、おせっかいなんです。
 とはいえ、彼らの豊かな想いにケチをつけたくはないよね。

妄想のスカートのなかの桜花

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 携帯で撮った桜の写真をそのうちアップしようと思っていたら、もう桜が散っていたという始末。しょうがないのでラグナロクのアマツ夜桜ショットでお茶を濁すことにします。
 2008年の桜について個人的にもっとも印象に残っているものは。いつぞや見た夢にあらわれた、女の子がスカートをたくしあげていてそのパンツがほのかに紅く染まった、まるで桜の花びらのようで。そのなまやかな鮮やかさがやけに脳裏にこびりついています。
 しかし、これは眠っているときに見た夢だよな。もしそうじゃなかったら……いや、僕のためにスカートをたくしあげてくれる女の子なんて実在するはずがないので、その点安心あんしんにじゅうまる。