セックスボランティア

セックスボランティア

セックスボランティア

障害者一般の恋愛というと、「星の金貨」を持ち出すまでもなく感動的なフィクション、美談としてのノンフィクションが世間のイメージとして定着しています。とはいえ、意思疎通もままならない重度の知的障害者がどうやって恋愛し、下半身不随の身体障害者がどうやってセックスしているのかという段になると、誰もが口を閉ざし、見て見ぬ振りをし、無意識的にタブー視してしまっている現実。
それらみんなが蓋をしてしまっている"クサイモノ"を、弱冠31歳の女性フリーライターが体当たり的に、そしてちょっぴり感傷的に、開け放ち、ほじくり出した、正直"とんでもない"本です。
自分ではオナニーすらすることのできない69歳の男性が、障害者年金から工面したお金で風俗嬢相手にセックスをする。「どーじょーして」、「おなさけで」性器を挿入させてくれたことに屈辱を感じながらも、

 「初めて女性の肌に触れられたことに心打たれた。しっとりして、柔らかく、母におぶわれた幼い日が思い出された」

冒頭のこのエピソードにまず度肝を抜かれます。
恋愛と性欲とを区別することが難しく、感情的なトラブルを起こしやすいというセックスボランティア。とはいえ人間の本能的欲求が、食欲・睡眠欲・排泄欲と性欲であることは歴然とした事実であって、食べさせること・眠らせること・排泄の世話も専門的な介助技術が確立され、ときにはボランティアで対応することも可能なのに、どうして性欲(セックス)だけが技術的に埒外に置かれているのでしょう。
それはもちろん、性愛とも呼ばれるセックスが、"愛"を共通項にして恋愛と分かち難く結びついている文化・思想があるから。恋愛は極めてプライベートな領域に属し、たとえオナニーの介助をすることはできたとしても、キスは拒否してしまう。誰だって嫌でしょう、好きでもない異性とくちづけを交わすのは。(オナニーの介添えをするのだって相当のものです)*1
セックスはそもそも情緒的な結びつきであるからには、性欲処理に徹したセックスボランティアという発想自体がもともと矛盾している気がします。同情心(ボランティア)でセックスしてもらうことの残酷さ、奉仕心(ボランティア)とはいえどうしてもできないキス。それらは文化とか思想とか道徳とかをひっくるめて、生々しいまでに真実の人間の姿、誰にも非難することはできません。
かといって障害者専門の風俗店に活路を見出そうにも、それは刹那的で事後の虚しい快楽に過ぎず、経済的負担が大きいうえ、人権問題とも絡んでとても公式な施策として行うわけにもいきません。「よほど優れた容姿であるならともかく、普通なら恋愛はおろか、セックスなんて(自分たちでもままならないというのに)ぜいたくだ」、世間は暗黙的にそう思い、自身そう思い込まざるを得ない障害者の性。

 「食べ物でも味を一生知らなければ、その味を求めて苦しむこともない。性のことも自分とは別の世界のことだと諦めていました」

 「愛と性欲を区別する必要なんてないんだ。恋愛感情は病気じゃないよ。それを受け止めて、対処する方法は必ずあるはずだから」

性介助者に対してどうしても芽生えてしまう恋愛感情を、僕らがギャルゲーヒロインに対して抱く萌え(擬似恋愛)感情のように、それ自体を"嗜む"ような心構えが求められるのかもしれません。
もはや障害者のセックス問題を根本的に解決するには、遠回りのようでも障害者に大いに恋愛してもらうしかない。文化、風潮、そして相互理解、それは一朝一夕に上手くいくことではないけれど、とりあえず障害者相手の、あるいは障害者同士の恋愛とセックスについての"いろは"的教育を公的にきちんと行っていくことが求められていくのでしょう(実際にセックスの現場で"指導"された大学の先生がいるそうです!)。
それは、教育全般において今推し進められている系統的な性教育の一部(派生)として位置付けられるものではないかとも思います。性について共に学ぶことから、もしかしたら健常者と障害者の意識的な壁が取り払われたりするかもしれませんよね。なにしろ、「性は生きる根本」なんですから。

 「快楽もなく、薬も使い、射精もできない。それでも、なぜセックスするんですか?」
 「きっと行きずりの相手だったらしないでしょうね。でも、家内は別です。私はほとんど性的な満足感はありません。しかし、自分のできる範囲で相手に喜んでもらえることが私の満足なんです。それにつきますね。感覚はないに等しいのに、精神的にいけるんです」

 「障害者の性についてどのように思うか?」
 「何を思えっていうのよ。チンチンは立派に立つ。オツユもドバーッと出る。チンチンが普通ならみんな同じ友達よね」

 「やっぱり同じ人間なんです。障害がある人でも感情はある。本当はこうやって性をお金で買うことは悪いことなのかもしれない。でも、私には他に可能性がなかった。どんな方法であれ、こういう機会があったことは良かった、とこれからもずっと思えるでしょう。恋愛や性の機会がない人もいるんです。性の商品化とかなんとか、周りの人は、いけないいけない、と言っているかもしれないけれど、少しでもその人が笑える可能性があるのなら、許されてもいいんじゃないかと思います」

 「性は心を生かすと書く。楽しくなくっちゃいけない」

 不真面目なようで申し訳ないけれど、この本を読み終わって僕が考えていることは、下半身不随などの重度な障害で自らオナニーすることも叶わないような人のための、手を使わずとも自慰行為を行うことのできるエロゲー"装置"ができたらどんなにか素晴らしいだろうということです。
実践的な性介助技術、マンパワー(ハードウェア)を援けるソフトウェアとしてのエロゲーという位置づけから出発して。自慰では得られない、情緒を忌避しない赤裸々な恋愛の喜びを探る道すがら。僕は思うのです。
楽しいボーイミーツガール、くすぐったい恋愛、やさしいセックス、幸せなエンディング。いまどきくだらなさ過ぎるありきたりのエロゲー。それがまたとない教育となり、ありがたい性自助具となり、なにものにも代えがたい夢と希望を彼ら・彼女らに与えることになる。
そんな作品を世に送り出すことができるのなら、将来において約束してくれるのなら。現今の幼女に対するえげつない数々の性犯罪について、どんなに擁護目に見ても犯人の精神形成上遠因・誘因のひとつとして認めざるを得ないエロゲーの、文化としての「帳尻を合わせている」ことになるのではないかと。(29/100)

*1:しかし、これだけ「妹萌え」のご時世で、血の繋がった妹ですら性愛対象にして構わないというような風潮なのだから、四肢不自由だけれども性機能は失っていない兄の、性介助として自慰を手伝ったり、セックスもしてあげるというような妹ヒロインが登場してもよさそうなものですよね。