ヒロインの脱衣覗きと、体験版につまづく

 よくギャルゲーとかで、ヒロインがお風呂に入るのに脱衣室で服を脱いでいるところを、そうとは知らない主人公が同じくお風呂に入ろうとしてドアを開け、ヒロインの裸を見てしまう事故(イベント)があるけれども。
 あれって、脱衣所のドアをちょっと開けた時点で、気配とはいわないけど、中に誰か人がいれば物音や室温でなんとなくわかりそうなものだし、遅くとも視界の片隅に何か動くものがちょっとでも入ってきた時点で、それが何なのか中にいる人が誰なのかはとりあえず、押し開けようとしたドアを反射的に引き戻すのが人としての最低限のマナーですよね。
 それを、気づかないはずがないのにあえて風呂場のドアを全部開け放ち、ましてや中で脱衣中だったヒロインの半裸姿を、それがあまりにもありえないことで驚愕のあまり反応が遅れたというにしても程があるくらい、"まじまじ"と拝み、ましてやホックの外れたブラジャーがヒロインの肩からほろりと抜けて、床に落ちたときの音まで聞き届けるとはもう、人間の風上にも置けないというより、身体機能の著しい変調を疑わざるを得ないですよね。
 ああいうのは、男性側からすれば、見えたのがほんの一瞬だったからこそ、コンマ何秒短ければ短いほど印象が強くなります。それが好意を寄せている女性であればなおさらですが、男の側の心理はこの際大した問題ではなく。
 見られた女性は、それがあまりにも瞬間的なことで、彼の前で裸を晒してしまったのは事実だけど、彼は視野に収めなかったかもしれない。見られたかもしれないという可能性だけが残り、それも断定できるものではないから、"犯人"を彼女は疑いきれません。
 しかも"犯人"たる主人公のことを彼女が好きだったりすると話はもっと複雑で、見られたのが彼でよかったと思うかもしれない、そう思うのははしたないと否定したくなるかもしれない。とにかく疑わしいけれどこれは事故だし、彼に悪気はなかったんだからという風に心の整理をつけ、このことにはあえて触れず、彼との関係を以前のように修復しようとするのだけども、しかしこのふたりが「見る」「見られる」前の関係に戻るのは不可能だということを、少なくともプレイヤーは知っているわけです。
 自分の裸を主人公に見られたかもしれないというときの、ヒロインの側の複雑で微妙な心の揺れが、それがこちら側の妄想に過ぎないとしても、この手のハプニングの醍醐味であったはずなのに。それが今日ではただのサービスシーン、本番セックスまでの"つなぎ"でしかなくなってしまったのが寂しいなあと、「そして明日の世界よりー」の体験版をプレイしていて思ったのでした。
 どうでもいいですね、はい。

 それにしても、割と評判の良いこの作品だけど、本編をプレイするかどうかは微妙なところです。体験版をもう少し進めてみないことにはなんとも。
 ちなみに僕は、体験版というものを音声を消してプレイするようにしています。音楽や音声というものはいわばカップ麺の天ぷらそばに載せるかきあげのようなもの。それが美味しいのは既にわかりきっていることで、作品の本質ではない。そばはあくまでそば。天ぷらはいつ食べてもいいんだし、だったら体験版ではそばだけを味わって判断すべきだと思うからです。
 しかし、良いギャルゲーをプレイしたいがためにいろいろ体験版をプレイしているのに、音楽も音声も聴かないでプレイして、それで本編に手を出さないことを決めてばかりいるここんところの現状を、「ギャルゲーをプレイしないために体験版をプレイしているのだろう?」と指摘されても、反論することはできないですね。
 なんというか、好きになる努力をしていない。
 ごく最近では、「シンフォニック=レイン」のしろさんがキャラデザをした「夏めろ」というギャルゲーが以前から気になっていて、体験版があるのを知ったのでプレイしてみたんですが、そうしたら「夏めろ」に関して何ら気になるところがなくなってしまいました。
 そもそもギャルゲーというものは、序盤プレイヤーに対し"我慢"することを強いるジャンルではなかったか。物語の体裁をとりつつどこか唐突でわざとらしいヒロイン次々紹介、後半物語が急展開する際の対比のためにあえて退屈に描かれる平凡な日常と、他愛なくもくだらないヒロインとの交流。無目的的で不毛な学校生活。馬鹿友だちとの素っ頓狂な漫才…。
 単独としてはほとんど面白みの感じられないそれら常設イベントの万年順列は、中盤以降のストーリー展開を見据えての、全体的な構成そのクリエイティブな規則にのっとった"企図されたつまらなさ"でしょう。その制作者側のみ覚悟されたつまらなさだけを取り出して、体験版と称し未だ心の準備も整わないプレイヤーにプレイさせるなんて――。
 もちろん、シナリオライターの個性がにじみ出て、構成云々ではないテキスト繰りそのものが面白くてたまらないという体験版もありました。それに、つまらなくて当然の体験版を「それほどつまらなくはない」「つまらないけれど許容範囲だ」、ぶっちゃけ「(生理的には)プレイ可能」と判断できれば、それは本編プレイ推奨ということなのかもしれません。ここらへんの秤のさじ加減は、プレイヤー個人個人によるのでしょうね。
 ただ、文章一般の表現の仕方、人間関係や世界観の構築流儀、何よりも主人公像というものに親しみや共感、あるいは信頼できる一貫性を見出せるかどうかは、体験版での結果がそのまま本編にも適用される可能性大だから、僕が体験版でつまづいてばかりいるのは、少なくとも僕自身にとってはそれほど不幸なことではないのかもしれません。
 ただ、それは残念なことだし、秤の重しがちょっと重すぎるのかなとも思います。そもそも僕はギャルゲーに何を求めているのかということすら、不分明なところがあるというのに…。
 この前の「ひまわり」のように、体験版のほんの"さわり"をプレイしただけで本編購入を決めてしまったような、余計なことになど考えも及ばず、ただとにかく体験版としてこのままプレイしていくのがもったいない、辛抱ならないと思えるくらいの作品とまた、出会いたいものです。