エレベーターの相乗り、なぜ避ける

 僕は今、マンションの9階に住んでいる。エレベーターで1階までを行き来する。
 先日、家に帰ろうと、1階でエレベーターのボタンを押して待っていると、おじさんがやってきた。エレベーターが来たので、僕は乗ったが、そのおじさんは動こうとしない。別のエレベーターが来て、おじさんはそちらに乗って行った。
 今のマンションに引っ越してから、こんな経験をよくする。なぜ、他人と同じエレベーターに乗りたがらないのかわからない。他人とのふれ合いを避けているように見える。
 昔、団地に住んでいたころには月に1度、近所の人たちが集まって町の清掃をしていた。しかし、今のマンションはそうしたことはほとんどないい。とても寂しいことだと思う。
 僕はマンションで人に会ったら、あいさつをしようと思う。それがご近所とふれ合う第一歩だと思う。(1/24付読売新聞投稿欄)

 ウチはエレベーターが1台しかないから、たまに相乗りしますよ。
 それが2台あって、どちらもすぐ到着しそうで、僕が後から乗り場にやってきた方だとしたら、やっぱり後から来るほうに乗ろうとするのではないかなと思うんですよ。それは寂しいとかとは次元の違う話です。知り合いでもなければ、進んで誰かとエレベーターに同乗しようと思わないのは仕方のないことですよ。
 むしろエレベーターが2台あって、もう1台がすぐに到着する状況であるにもかかわらず、先に到着した1台に乗ろうとするものなら、先に待っていた相手はなんとなく不穏な空気を感じ取るかもしれませんし、それが女性であればさらに余計な緊張を与えてしまうことになりかねません。
 そういう危険性を不用意に生じさせること、相手に気を使わせるのも悪いし、自分が気を使うのも億劫だからとなどを総合的に勘案して、できれば相乗りは避けてようという意識が芽生えてしまうのも、致し方ないことでしょう。君子危うきに近寄らず、です。ちょっと違うか。
 それより僕が面白いなと思うのは、エレベーターは相乗りするものか、相乗りしないものなのかという意識、あるいは約束の共有ということです。
 エレベーターに続く廊下をふたりの人が歩いている、先を行く人の後に僕が続いているとします。エレベーターは1台。ふたりともエレベーターに乗る前に何も用事がなければ、当然、先を歩く人がボタンを押し、僕がホールに入った頃合、ちょうどエレベーターが到着することでしょう。
 そういう状況であれば、ボタンを押した人が先にエレベーターに入り、僕は「すいません」と言いながら相乗りさせてもらうことになるでしょう。
 しかし、もし僕がエレベーターに乗る前に用事があるとしたらどうでしょう。郵便受けを覗いたり、自転車を自転車置き場に置くというような場合です。そのとき僕は、先にエレベーターホールに入った人には先に上っていってほしいと思うし、僕が自転車を引いていることに相手は当然気づいているだろうと断定できる状況であれば、先に上っているものだと認識します。
 それが万が一、相手がエレベーターに乗ったまま僕のことをずっと待っていたとしたら、驚き、非常に申し訳なく思うでしょう。相手に不快な思いをさせてしまったと恐縮し、今後の近所付き合い上問題になるかもしれないと考えてしまうかもしれません。
 逆に先にエレベーターホールに着いた方が、後から僕がついてきていることには気づいていて、自転車を引いていることもわかっているという場合。とりあえずエレベーターに乗って待っているべきなんだろうけれど、相手は自転車を置くための空きを探したり、鍵をかけたりするのに思いのほか時間を要するかもしれない。エレベーター内で「開」ボタンを押しながら待つというのもどこか間抜けだし、何より、見知らぬ他人に待たれるのも相手にとっては迷惑なだけ、むしろ恩着せがましいという不本意な意図を相手に与えかねません。
 ――たかがエレベーター、されどエレベーター。
 僕たちは一応賢明なイキモノなので、たかがエレベーターなぞに煩わされないための知恵を絞ります。それが、「エレベーターは相乗りしてもいい」という不確定な認識をひとおもいに棚上げし、「エレベーターは相乗りしないもの」というわかりやすい約束を設定し、共有化するということです。
 相手を思いやるというきっかけと、しょせん自分の都合という本音を天秤にとって、もっとも無難な選択肢"しか"選ぶことができないシステムをみんなで共有しようというのです。それしか選ぶことができないのだから、気後れしたり、罪悪感を抱いたりするというようなことはありません。
 この約束が守られている限り、自転車を置き場に戻さなければならない僕は、先にエレベーターホールに入った人が、僕を待つことなく上っていると安心して思うことができます。先にエレベーターホールに入った人も、僕が自転車をすぐさま片付けてエレベーターに相乗りしようなどと思っていないと、安心して思うことができます。
 「エレベーターは相乗りしないもの」という約束があるからこそ、不確かな憶測で気をもんだり、互いに気を使ったり、気まずい思いをせずに済むのです。
 でも、その約束が強まりすぎると、つまり「エレベーターは相乗りしないもの」という意識が強くなりすぎると、ちょっとおかしなことになります。僕は自転車も引いていないし郵便ポストもさっき見たばかりなのに、なんとなくポストをもう一度覗いてみたりして先の人がエレベーターで上っていくのをやり過ごしてみたり、後からついてくる人が自転車を引いてなくて、自分に続いてすぐホールにやってくる様子なのに、気づかない振りしてひとり上っていってしまったり……。
 相乗りを避けてしまう、しいてはふれ合いを避けておかしなことになっている現代人の今日的状況の、実相は、こういうことではないかと思うんです。今回は約束と表現した、利便上もっとも無難な選択肢"しか"選ぶことができないわかりやすいシステムがまずあって、というかそれが社会というものなのかもしれませんが。そしてそれが強くなりすぎている。
 だからふれ合いたくてもなかなかふれ合えない? 少なくともここで気づかなくちゃいけないのは、気をもんだり、気を使ったり、気まずい思いをするかもしれないからこそ、ふれ合いなんだということです。気弱というか、のっけから小心者なんですよね。いや、僕は。
 約束を破るというのではなく、やわらかく無視する。どうやればいいんだと言われても困りますけどね。あくまで机上の空論なので。
 ま、この投稿した若者のように「マンションで人に会ったら、あいさつをしよう」。でも僕からあいさつをすると相手は面倒そうな感じがして、じゃあ無視しようとすると相手から不意にあいさつされたりして。そのときの僕の驚いたような感じが、相手に「迷惑だったかな」と思わせるんでしょうね。
 人づきあいとか、あいさつの輪ってなかなか難しい。まずは意図よりも習慣ですねえ。