目に見える黒が香ってる

 今も放映しているのかな、サントリー「天然水」のCMの最新作がバイオリン篇といって、雪に埋もれた白樺の森の中で女の子がバイオリンを弾いているというものなんですが、これが妙に印象的なんですよね。もともとこのシリーズはどれもそうなんですけど。
 CM情報 サントリー天然水 サントリー
 女の子が特別かわいいとか、バイオリンの調べが美しいとか、そういうことではなく。なんというか、世界の色というものをいっさい払拭したように真っ白な雪原にあって、いっそう映える、世界でもっとも明晰で無慈悲な黒色の揺るぎないスカートとタイツに、人としての感覚をやおら踏み外したエロティシズムを嗅ぎ取りでもしたかのように、わけもわからずドキドキしてしまったと。
 晴れ渡った明澄な空気感と、南アルプスを遥かに湛えながら喜ばしい情感を響かせる弦の音色、その清楚で美しいありさまにあって、女性にとってもっとも女性らしいといえる身体の領域を完膚なきまでにおおった黒色は、あまりにも親密でどこまでも近寄りがたいがゆえに、においとしか呼べないような何かを、生々しいまでの鮮やかさを視聴者に、僕にみなぎらせてしまうのです。
 ――目に見える黒が香ってる。
 ウチの車のボディカラーはホワイトです。
 車を洗剤使って懸命に洗ったという話は昨日書いたけど、そのときの洗剤の泡を水で流し落とし、雑巾で残った水滴を拭いているとき気がついたんです。拭き取った後にあらわれた車体の白色は、残った水滴を通して見える白よりもくすんでいるんですね。
 そこで、試しに水に濡らした雑巾で乾いた部分をちょっと撫でてみると、一瞬すごい白が浮かび上がって、でもすぐ元のくすんだ白に戻ってしまう。ああ、白というものはつまるところ幻想でしかないんだなと、そう思ったのです。
 現世で儚い本当の白色は、きっと人間が意識を喪失するときに充たされるべきもの。そんなのをいま追い求めたってしようがない。だったら僕らはせいぜい、この此岸であまりに瑞々しく淀んでいる黒色を欲望し続けるしかないじゃないか。
 何度見てもそそられるなあ、このCMは。

コイン洗車場に粘り勝ち?

 先日、戦うことすらなく"おめおめ"と撤退したコイン洗車場。
 今日こそはと、汚名をすすぐ大いなる決意を秘めて、僕は出陣したのです。
 サイトをよく読んでみるとですね、水だけが出る機械も設置してあるみたいで、それを使ってまず車を水洗いし、既に購入してある専用洗剤で水垢をごしごし落とすという戦術ならいけるんじゃないか、そう考えたんですね。
 まず、その水洗い専用の機械に車を寄せ、料金をチェック。ふむふむ、4分間で400円か……よく考えるとものすごく高い気がするけど、これは戦(いくさ)だ金を惜しんでいては戦えない。さっそくコインを挿入。
 まるでマシンガンみたいな形のホースを手に持って、放水スタート。
 うおおおお、これはすごい勢いだ、まるで校庭とかに設置してあるスプリンクラーを間近で見ているようです。これはいける! ぶわーっと車を水浸しにして、一時停止のボタンを押下。さっそくスポンジに洗剤を染みこませてウォッシュ開始ですよ。
 ごしごし――。
 ごしごし――。
 ごし――「キンコーン、利用時間が終了いたしました。ホースを巻き戻してください。キンコーン、利用時間が終了いたしました。ホースを巻き戻してください」
 ちょっと待てぇぇい!!
 そりゃないだろ、慌ててホースのレバーを持ち出して放水スタートボタンを押してみると、もう水が出ることはありませんでした…。おいおい、一時停止ボタン押しといたじゃないかよ。押してからまだ何分もたってないじゃんよ。
 えーと。機械に書いてある注意書きをよく読んでみると。一時停止は300秒までで、それを過ぎるとカウント再開、基本的に水を使おうが使うまいが4分が経てばサービスは終了、ということらしいです。
 なんだそっかー。あははそうなんだー。
 って、ふざけるなああああああああああ。40秒も使ってないよっ。
 300秒、つまりたった5分でどうして洗車を終えることができる? ある程度の制限をかけるのは仕方ないが、それが水量じゃなく時間というのも納得いかん。早さじゃないでしょ、こっちはじっくり丁寧に洗車したいんだから。
 それに僕以外の客は1人だけ、僕が終わるのを待っている人がいるわけでもないのに、時間制限をかけて回転率を気にしたって意味ないっしょ。
 はあ。この洗剤まみれで洗車途中な事態を僕はいったいどうしたら……。また400円払えと? 冗談じゃない。
 まあ、こんなこともあろうかと一応バケツを持ってきていたので、前回来たとき隣の客がバケツで洗車していたしね。僕もそのときの客と同じ場所に停めて洗車していたということもあり、なんとか事なきを得ましたが。恐ろしく手間がかかりましたよ。
 あの、スーパー銭湯でよくある、押下すると数秒間だけ水が出るタイプの蛇口を押し続けながらバケツに水を注いでいるとき、そもそも400円すら払う必要あったのかな、最初からこのバケツと洗剤と蛇口を使って洗車していれば良かったんじゃないのかなと、さわやかに、心の底から僕は思いました。
 初夏導入編めいたうららかな午前の日差しに、額の汗を腕で拭いながら、機械の力に頼らない洗車作業に励むこと1時間以上。確かに水垢は気持ちよく取れ、車は見違えるように真っ白になったけれども、しかしどこかすっきりしない、釈然としない、そんなコイン洗車場決戦第二回戦でした。
 「すごい綺麗になったじゃないの」、母親は大絶賛。そりゃあんたにとっては無料だもんな、いくらでも絶賛したくもなるだろうて。

着うた全開と、ウニ責任問題

 今日、母親と月イチ恒例の100円均一回転寿司に行った、そのときの話。
 開店してすぐに入ったんですけど、うちらより早く店に着いて開店を待っていたらしい女子中学生4人組が、隣のテーブル席に座ったんですね。ちょうど僕が座った背中側にあたり、彼女たちのやり取りが至近で聞こえてくるわけですよ。だからまあ、聞いていたと。べ、別に聞き耳を立てていたってことじゃないんだからねっ!
 やれ「明日の体育マラソンだよ、めんどくさー」だの、「数学の○○うざくね?」だの、「だいたい休み時間短すぎ」だの、いかにも女子中学生ちっくな他愛ない学校話を、「そんなことでどうしてそこまで盛り上がれる?」とこちらが奇妙に思うほどのハイテンションさで、ワイワイやっているんですよ。
 ぶっちゃけこの時点で既にうるさいし、文句を言ってもいいくらい迷惑なんですが。言葉使いは変わっても内容はいつの時代も変わらないなあなどと、微笑ましく思っていた部分もありました。彼女たちのリア顔を直接見ずに済んでいたことが、僕の妄想をノンストップという側面も否定できません。
 話の様子からすると、彼女たちはこれからカラオケボックスに行くらしく、その前の腹ごしらえをするためにこの回転寿司にやってきたらしい。それはわかる。わかるんですが。
 何を思ったか彼女たち、僕と直に背中を合わせているひとりがおもむろに携帯電話を取り出し、"決して控えめでない音量"で着うたを流し始めたじゃないですか。しかも「カラオケでこの曲歌おー」などと、あろうことか口ずさみやがるんですよ。やがてみんなでユニゾン。こうして愛の歌は世界へと広がってゆkうるせぇんだよ!
 しかも、一向に皿の進まないみんなをはやし立てるように、「誰かあのウニ食べなよ」と通路側の女の子が言ったのを、勘違いというか素直に受け取ったレーン側の女の子が、そのウニを取ってしまった。
 「ちょ、あたし食べるつもりじゃなかった」「なによそれー」「誰が食べる?」「つーか誰か食べれんの?」「ウニなんてあたしキモくて食べれなーい」「戻そーよ」「残したっていいんじゃね?」などと、延々にウニの責任を押し付けあう始末――。
 お前らウニに謝れよ! 100円だってウニはウニなんだよ、プライドがあんだよ! 俺はこれはこれで旨いと思ってんだよ!
 というかお前らわさび入りで食えもしない寿司屋来てないで朝イチでカラオケボックスに入ってフライドポテトでもパクついてろよ。それが似合ってんよ、最高だよ。
 ちなみに、彼女たちの会計時、店員が数え上げた皿の合計枚数、8枚。ウニ責任問題の結末については確認できませんでした。
 要するに彼女たちはただ、どこでもいい、騒ぎたかっただけなのだと。
 異文化理解というのは実に難しい、取り組もうともただ無意味に疲れをもたらすだけだと、僕は実感したのでした。
 女子中学生なんて二次元か妄想か、せいぜい回想シーンだけで十分だ。

石田徹也「飛べなくなった人たち」

 僕はそもそも美術に関しては、描くのも評価するのもからっきしダメで、バースとか遠近法と言われても全然分からないんですよ。
 絵画を鑑賞すること自体は嫌いでもないんだけど、なんていうのかな、鑑賞した作品を言葉で表現することが上手くできなくて、居心地が悪いというか。申し訳ないというか。ネガティブな自己中心主義。
 「わかりもしないものを観たって意味ないし、意味あることを書こうとして恥かしい思いをするのも嫌だ」と、どうせ美術館の拝観料は高いし、僕にとって(アニメやギャルゲーに比べて《比べるものが悪い》)あまりにも手に余る世界だしと、二の足を踏んでいたのです。
 それが、今日放送のテレビ東京の美術番組「KIRIN ART GALLARY 美の巨人たち」の、石田徹也「飛べなくなった人たち」を観て、ああ、言葉で表現する必要なんて始めからなかったんだと、そんなごく当たり前のことに気づかされました。
 初めて会った人に、僕のこれまでの人生についていちいち語ったりはしない。それと同じように、石田徹也氏の絵を見たとき、作者の人生その内面に淀む社会との深刻なあつれきに、氏独特の皮相的なゼスチュアを通して出会う。それは、共感・気味悪さ・感銘・気分の落ち込みなど、好悪・快不快をひっくるめたさまざま感覚を人々に呼び起こすことでしょう。そんなごく個人的で本質的な体験を、他人にいちいち語る意味も、必要もありはしなかったのです。

 彼の絵を見た人は皆一様に押し黙り、キャンバスを凝視し続けるといいます。その絵が、我々が知らず知らずのうちに見ないふりをしている世界の矛盾を赤裸々に暴き出してしまっているからです。

 石田氏は、その圧倒的なオリジナリティ、内省的な社会風刺という痛々しいまでの鮮烈さによって、日本でさまざまな賞を受賞してきたにも関わらず、絵そのものはほとんど売れなかったという。しかし正直、よくわかる。氏の絵がもし自分の部屋に飾ってあったりしたら、僕は部屋に入るたびに塞ぎこんでしまうそうです。
 けれど、「自分の絵は貧しくなければ描けない」と本人は語り、事実かぐや姫の「神田川」を地で行くような住環境において彼は、ひたすら絵を描き続けた。
 過酷なアルバイトをこなしつつ、商業的成功の困難な創作活動に励むという、あまりに鬱屈とした先の見えない生活の中でこそ、氏はオリジナリティとしての自己投影的な社会風刺のイメージを生み出してきたのだと思います。しかしそれはなんて不器用な生き方なんでしょう。

 その絵には、必ず悲しげな顔の男が登場。それは自画像だと言われています。世の中に押しつぶされそうな自分自身の姿・・・。

 画中の男の無表情でうつろな瞳をじっと見つめていると、それがあたかも僕自身であるかのように思えてきて、背筋がひんやりしてしまうほどに、僕は石田氏のまなざしと同一化していた。
 2002年頃から、それまで注目を浴びてきた社会風刺の視点を減衰させ、より内面性の強い作風へと傾倒していくのを、「オリジナリティがなくなる」と画商に指摘された彼は、いつも世話になっていたにもかかわらず3ヶ月、いっさい姿を見せなくなります。
 ようやく再びこの画商のもとを訪れた彼が持ってきた、それについて何も語らなかったという作品、「体液」(2004年作品)を見たとき、僕は、素面では本当久しぶりに涙をこぼしてしまいました。
 美術って、"美"術というくらいなんだから、美しいはずなのに、美しくなきゃいけないのに、どうしてこんな、石田氏の絵は見苦しくて、痛くてせつなくて、どうしようもなく救われない気持ちにさせられるんだろう。
 それはまるで、人生とはかくあるべし、社会とはかくあるものという揺るぎようのない世界にあって、どうにもならない自分という存在の、せめて内側だけででもなんとか折り合いをつけようと自分を弄繰り回していたら、もう痛みを痛みと感じない目に映るもの全てが信じられない空の容器に成り果ててしまったかのようで。
 その空の容器は、もう二度と石田氏の体液で満たされることはなくなってしまって、今度は僕たちが体液を注いでみるんだけど、だからといって自分も誰も救われやしない。虚しいだなんて空疎な言葉で済ますにはあまりにも切実で、何に対して憤ればいいのか、そもそも怒る気力すらわかないこの無力感は、絶望というよりも、色が失せてしまったんだと思います。
 ――遺作集も欲しいけど、これは実際に実物を観てみたい。
 「美術とは何なのか」という閉塞的な問いから、アートとイラストレーションが区別されてしまうのなら、「何をもって美術だというのか」という包括的な問いから、石田徹也氏の作品はより一般的に評価されるべきだと思います。とりあえず番組プレゼントには応募しておこう。うむ。

ヒロインの脱衣覗きと、体験版につまづく

 よくギャルゲーとかで、ヒロインがお風呂に入るのに脱衣室で服を脱いでいるところを、そうとは知らない主人公が同じくお風呂に入ろうとしてドアを開け、ヒロインの裸を見てしまう事故(イベント)があるけれども。
 あれって、脱衣所のドアをちょっと開けた時点で、気配とはいわないけど、中に誰か人がいれば物音や室温でなんとなくわかりそうなものだし、遅くとも視界の片隅に何か動くものがちょっとでも入ってきた時点で、それが何なのか中にいる人が誰なのかはとりあえず、押し開けようとしたドアを反射的に引き戻すのが人としての最低限のマナーですよね。
 それを、気づかないはずがないのにあえて風呂場のドアを全部開け放ち、ましてや中で脱衣中だったヒロインの半裸姿を、それがあまりにもありえないことで驚愕のあまり反応が遅れたというにしても程があるくらい、"まじまじ"と拝み、ましてやホックの外れたブラジャーがヒロインの肩からほろりと抜けて、床に落ちたときの音まで聞き届けるとはもう、人間の風上にも置けないというより、身体機能の著しい変調を疑わざるを得ないですよね。
 ああいうのは、男性側からすれば、見えたのがほんの一瞬だったからこそ、コンマ何秒短ければ短いほど印象が強くなります。それが好意を寄せている女性であればなおさらですが、男の側の心理はこの際大した問題ではなく。
 見られた女性は、それがあまりにも瞬間的なことで、彼の前で裸を晒してしまったのは事実だけど、彼は視野に収めなかったかもしれない。見られたかもしれないという可能性だけが残り、それも断定できるものではないから、"犯人"を彼女は疑いきれません。
 しかも"犯人"たる主人公のことを彼女が好きだったりすると話はもっと複雑で、見られたのが彼でよかったと思うかもしれない、そう思うのははしたないと否定したくなるかもしれない。とにかく疑わしいけれどこれは事故だし、彼に悪気はなかったんだからという風に心の整理をつけ、このことにはあえて触れず、彼との関係を以前のように修復しようとするのだけども、しかしこのふたりが「見る」「見られる」前の関係に戻るのは不可能だということを、少なくともプレイヤーは知っているわけです。
 自分の裸を主人公に見られたかもしれないというときの、ヒロインの側の複雑で微妙な心の揺れが、それがこちら側の妄想に過ぎないとしても、この手のハプニングの醍醐味であったはずなのに。それが今日ではただのサービスシーン、本番セックスまでの"つなぎ"でしかなくなってしまったのが寂しいなあと、「そして明日の世界よりー」の体験版をプレイしていて思ったのでした。
 どうでもいいですね、はい。

 それにしても、割と評判の良いこの作品だけど、本編をプレイするかどうかは微妙なところです。体験版をもう少し進めてみないことにはなんとも。
 ちなみに僕は、体験版というものを音声を消してプレイするようにしています。音楽や音声というものはいわばカップ麺の天ぷらそばに載せるかきあげのようなもの。それが美味しいのは既にわかりきっていることで、作品の本質ではない。そばはあくまでそば。天ぷらはいつ食べてもいいんだし、だったら体験版ではそばだけを味わって判断すべきだと思うからです。
 しかし、良いギャルゲーをプレイしたいがためにいろいろ体験版をプレイしているのに、音楽も音声も聴かないでプレイして、それで本編に手を出さないことを決めてばかりいるここんところの現状を、「ギャルゲーをプレイしないために体験版をプレイしているのだろう?」と指摘されても、反論することはできないですね。
 なんというか、好きになる努力をしていない。
 ごく最近では、「シンフォニック=レイン」のしろさんがキャラデザをした「夏めろ」というギャルゲーが以前から気になっていて、体験版があるのを知ったのでプレイしてみたんですが、そうしたら「夏めろ」に関して何ら気になるところがなくなってしまいました。
 そもそもギャルゲーというものは、序盤プレイヤーに対し"我慢"することを強いるジャンルではなかったか。物語の体裁をとりつつどこか唐突でわざとらしいヒロイン次々紹介、後半物語が急展開する際の対比のためにあえて退屈に描かれる平凡な日常と、他愛なくもくだらないヒロインとの交流。無目的的で不毛な学校生活。馬鹿友だちとの素っ頓狂な漫才…。
 単独としてはほとんど面白みの感じられないそれら常設イベントの万年順列は、中盤以降のストーリー展開を見据えての、全体的な構成そのクリエイティブな規則にのっとった"企図されたつまらなさ"でしょう。その制作者側のみ覚悟されたつまらなさだけを取り出して、体験版と称し未だ心の準備も整わないプレイヤーにプレイさせるなんて――。
 もちろん、シナリオライターの個性がにじみ出て、構成云々ではないテキスト繰りそのものが面白くてたまらないという体験版もありました。それに、つまらなくて当然の体験版を「それほどつまらなくはない」「つまらないけれど許容範囲だ」、ぶっちゃけ「(生理的には)プレイ可能」と判断できれば、それは本編プレイ推奨ということなのかもしれません。ここらへんの秤のさじ加減は、プレイヤー個人個人によるのでしょうね。
 ただ、文章一般の表現の仕方、人間関係や世界観の構築流儀、何よりも主人公像というものに親しみや共感、あるいは信頼できる一貫性を見出せるかどうかは、体験版での結果がそのまま本編にも適用される可能性大だから、僕が体験版でつまづいてばかりいるのは、少なくとも僕自身にとってはそれほど不幸なことではないのかもしれません。
 ただ、それは残念なことだし、秤の重しがちょっと重すぎるのかなとも思います。そもそも僕はギャルゲーに何を求めているのかということすら、不分明なところがあるというのに…。
 この前の「ひまわり」のように、体験版のほんの"さわり"をプレイしただけで本編購入を決めてしまったような、余計なことになど考えも及ばず、ただとにかく体験版としてこのままプレイしていくのがもったいない、辛抱ならないと思えるくらいの作品とまた、出会いたいものです。

コイン洗車場に敗れ去る

 ウチの車の水垢が気になると母親が言うので、ガソリンスタンドに行って店員に相談したところ、この水垢は安い機械洗車コースでは取れないという。それならどうしたらいいかと尋ねたら、水垢取り専用のコースというものがあるけれども、それは4000円もするというんですよ。
 洗車で4000円なんて考えられないので、その場は機械洗車だけしてもらって、水垢は自分で取ろうと思ったんです。カー用品店に行けばそういう洗剤みたいなのがあるだろうと踏んでね。
 そうしたら、予想通り水垢取り専用の洗剤が幾種類も売っていたので、その中でも安めの600円くらいのやつを購入し、いざ洗車!
 …しようと思ったんだけど、洗車する場所がなかったYO!
 僕は人生ここにいたって初めて、「コイン洗車」という業態の存在を意識しました。
 ネットで調べたら近所にコイン洗車の全国チェーン店があるらしいので、さっそく行ってみたわけなんですが。
 ノーブラシ洗車場のJAVA
 あまりにもよくわからないので、何もしないで帰ってきちゃいました…。
 僕の中のコイン洗車場というのはですね、まず放水バーみたいなのがあって、10分間300円くらい払って水使い放題。それで、自分の用意した洗剤なりワックスを使って車をきれいにするというようなシチュエーションをイメージしていたんです。
 なのにその洗車場ときたら、いきなり機械洗車の門みたいなのが3つ4つ並んでて、まずそこからして違う。中をよく見てみると、門の先のほうに僕がイメージしていたような区切られたスペースを見つけたので、「ここが本丸かっ」、門をよけてそこに車を寄せて降たんです。すると掃除機のホースみたいなのが付いている機械がぽつんと脇に立ってて、「強い圧力で即乾燥」みたいなことが書いてある。
 ちょ、乾燥って言われてもまだ洗ってもいないんですけど(感想)。
 妙なところに来ちゃったなあと困りながら隣のスペースを見ると、カーペット洗浄のために設置されている蛇口のところにバケツを5つくらい置いて、ひたすら車にバケツの水をぶっかけているお兄ちゃんが。そのバケツは持ち込みなのか、この蛇口の水は有料なのかなどと疑問はますます募るばかり。でもなんだか近寄りがたい雰囲気なので聞くに聞けないし、無人なのか、店員がどこにいるのかすらもわからずで…。
 ――母さん。
 なんだかコイン洗車場というところには、一見さんには理解できない洗車システムと、素人には触れることすらできない掟が存在するみたいですよ。もしかして事前予約制とか、提携ガソリンスタンドからの紹介制だったりするのかなあ。
 だから僕は、申し訳ないんですけどコイン洗車場というものについてもっとよく勉強してから出直そうかと思うんです。だから、車に付いた水垢はもう少し我慢してください(敗北の弁)。
 確かに僕は車のことに関しては全然無知ですよ。興味もありません。たまにガソリンスタンドの待合室で待っているとき、「○○(メーカー名)の○○○のお客さまー」と店員に呼ばれたのに、僕のことだとは気づかず、その店員が僕の顔をしげしげ見ながら「○○(メーカー名)の○○○のお客さま?」と尋ねてきてようやく、「あ、はい?」みたいな(「そういやウチの車はそんな名前だったっけ」と思い出す)。
 でも、でもね。水洗い洗車の目安が週2〜3回というのはいくらなんでも多すぎだと思うんですよ?

物を大切に使うということと、大切な物をもつということ

 新学期を迎え、わが家の小学生の子供たちが新しい教科書をもらってきた。ふと下の子の国語の教科書を見ると、2年前に上の子が同じ学年だった時に使ったものと似ていると感じた。
 試しに2年前のを引っ張り出してみると、表紙も内容も全く一緒。ページ数もピッタリ同じだった。1年間しか使わないので大して傷んでおらず、もったいないと思った。
 果たして毎年同じ教科書を全員に配る必要があるのだろうか。(略) 兄や姉がいる子は教科書をもらわないという選択ができないものだうろか。子供たちも、物を大切に使うことを身につけられると思う。
(読売新聞)

 物を大切に使うということは確かに大切なことだけれど、この場合の「物を大切に使う」という発想は、2年前に上の子が使っていた教科書を保管していた親のものであり、「物を大切に使う」ということを身につける機会を得たのも、この場合は親でしかないのだと思います。
 いくら内容に全く変わりがないとは言え、兄妹は新品を使っていたはずなのに自分だけその"お下がり"をもらったとしたら、本人は「自分は兄妹の"ついで"なのか」「大切に思われてないのか」と不安や不信を抱いてしまうかもしれないし、ましてや、隣の席の子は新しい教科書で自分だけ古い教科書だということに気づいたとき、本人がどう思うかということを考えて欲しいです。
 だから、兄や姉がいる子だけお下がりの教科書を使わせるだなんて適当具合ならまったく辞めるべきで、どうしてもやるというなら、いっそクラス全員がお下がりの教科書であるべきです。それに、物を大切に使うということを身につけさせたいというのなら、むしろ新しい教科書をこそ与えるべきだと僕は思いますね。
 一学期の初めにもらった新しい教科書が、三学期が終わり押入れにしまうとき、それが酷くくたびれていれば、それがたくさん勉強してきたんだということの得がたい記念であるし、まるで新品同様であれば、それが勉強そっちのけで楽しく遊んできた微笑ましい記念でもあるからです。
 そこには、単なる即物的・経済観念的な意味に捕われない、人生的な意味でより広く、深い意味での物を大切に使うということを得るまたとない機会となりうるでしょう。
 まあ極論すれば、教科書とは大切にされるべきでないものだと思うんですね。たとえば、当時好意を寄せていた別のクラスの女の子に教科書を貸して、返ってきた教科書の頁の隅に彼女のやわらかい字で「○○君、ありがとう」と小さく書いてあったりするのを、どうして"お下がり"として与えることができるものでしょう。
 物を大切に使うことと、大切な物をもつということ。大切な物なら、大切に使わないわけがありません。
 兄や姉が使っていた古い教科書と、自分のためだけの新しい教科書というのでは、そもそも次元というか、発想のジャンルが違いすぎるのです。それなのに、一石二鳥的なあさはかさで一緒くたにするのは正直、感心できません。現実問題、兄姉のお古の教科書を、素直に大切なものだと思える子どもがいるとも思えませんし。
 物を大切に使うことはもちろん大切な心構えですが、それは何にでも応用されるべきでなく、束縛されるものでもなく、ましてやそれがために大切なものが失われるとしたら、悲しすぎます。
 繰り返すようですが、新しく与えられたものを大切にするという場合の主体と、上の子が使った教科書を下の子に使わせるという場合の主体は異なり、物を大切に使うということを身につける機会を与えられるのは、前者であれば子ども自身であるけれども、後者は親でしかないのだということを指摘しておきたいです。
 そして、前者において親が、物を大切に使うということを折に触れて子に教える手間を省きたいがために、本来性質の異なる後者を代替として用いて済ませようというつもりならば、それはとんだ"ズル"です。
 ましてや、新学期初めにもらった新品の教科書。あの、上質なインクと紙が混ざりあいかもし出す、濃厚な工業的でありながら芳しいはじまりの予感として、身体全体に嬉々として駆けめぐってくるような、あのにおいを子どもたちから奪うだなんて、そんな人でなし、子どもの権利条約違反に違いありません。
 きっと!